ナンバー1は誰だ!?フリーキック日本歴代TOP5

サッカー




サッカーの試合の中で、色々な得点パターンがありますが、その中でもフリーキックは芸術点も高く非常に期待して見てしまいます。

そして日本サッカー界には何人ものFKの名手がいて、Jリーグ・代表戦では何本もの美しい軌道のFKからのゴールが生まれています。

そんな日本サッカー界におけるフリーキックの名手をランキング形式でTOP5を見ていきたいと思います。




第5位 三浦淳宏

選手名 : 三浦淳宏

ポジション : DF・MF

代表通算 : 25試合1G

プレースタイル : 無回転FKのパイオニア

幼少期は野球をしていたが小学校3年生からサッカーに転向後周りよりスタートが遅かったので、練習後も自宅でひたすらボールを蹴り、特にキックの練習を欠かす事なく続けこれが将来の高いキック制度の土台になったのでしょう。その後高校では長崎の名門国見高校で選手権で2回の優勝という輝かしい成績を収め大学へ進学するが1994年に中退し横浜フリューゲルスに入団。フリューゲルス消滅後は横浜マリノスで2000年の1stステージ優勝に大きく貢献します。日本代表では1999年コパ・アメリカの初戦ペルー戦で直接フリーキックを叩き込みこれが代表初ゴールに。その後も日本代表に選出されるも当時は若手の小野伸二や中村俊輔とのポジション争いで控えに回る事が多かった。

特に三浦淳宏といえば「無回転フリーキック」

クリスティアーノ・ロナウドや本田圭佑が注目を集める10年近く前から得意とし、数々のゴールを生み出しました。ミドルショートでも無回転放ち、急激に落ちるドライブシュートなど多彩なキックスキルを持つFKの名手です!

第4位 本田圭佑

選手名 : 本田圭佑

ポジション : MF

代表通算 : 98試合37G

プレースタイル : 得点量産超攻撃型MF

2010年代の日本サッカー界に歴史を刻んだデンマーク戦の長距離無回転FKが今でも語り継がれる不滅のジャンケン本田圭佑。3大会連続でW杯のゴール・アシストを決めた勝負強さを持ち合わせ、その中でもフリーキックでの得点を多く記録しています。本田選手は幼少期ガンバ大阪Jrユースに所属したものの、ユースチームへの昇格が見送られ苦渋を味わった過去があります。ユースチーム総格が叶わなかった本田は石川県の名門星稜高校へ進学し3年の頃にはキャプテンとして選手権のベスト4に貢献。その後2005年は名古屋グランパスへ加入しプロサッカー選手のキャリアをスタート。初年から躍動し2年目からはレギュラーに定着し才能を開花。2008年にはオランダ1部VVVフェンロに移籍すると、後半戦からの加入にもかかわらずレギュラーに定着。初年度に2部降格という屈辱を味わうも、次のシーズンでは背番号10でキャプテンを任され36試合で16ゴール13アシストで年間MVPを獲得。アンダー世代の日本代表に選ばれ2007年北京オリンピック2次予選香港戦で見せた脅威のフリーキックはホンダの名前を日本中に轟かせた。その後はA代表にも定着し当時絶対的エースとして君臨した中村俊輔とFKのキッカーで言い争うなど若手ながらカリスマ的な選手として台頭しました。2010年南アフリカW杯では初戦のカメルーン戦でのゴールなどもあり自国開催以外での初のベスト16進出に大きく貢献。特にデンマーク戦では30m超えの長距離から得意の無回転シュートを叩き込みGL突破への弾みをつけました。所属チームでは、VVVフェンロからCSKAモスクワへ移籍後セリエAの名門ACミランで10番を着用するなど着実にステップアップを果たした。2023年現在無所属の本田はまだ引退を宣言しておらず今後どこに所属するのか、もしくは実業家になるのか注目です。

第3位 木村和司

選手名 : 木村和司

ポジション : MF

代表通算 : 130試合41G

プレースタイル : 的確なキックを武器にプロサッカー創成期を牽引

次にランクインしたのは80年代日本サッカーを牽引してきたレジェンド木村和司。高校時代は広島工業の中心選手として高校選手権ベスト4に進出して躍動。その後明治大学に進み在学中に日本代表に選出されるなど世代を超えた活躍を見せた木村は、卒業後の1982年日産自動車サッカー部(現 横浜F・マリノス)に入団。1983年には天皇杯決勝でチャンスを演出しチームの初タイトル獲得に貢献しました。1972年大学2年時に日本代表に選出されてからは常連選手として定着。1982年には当時全盛期を迎えていたディエゴ・マラドーナがいたアルゼンチン代表とのゼロックス・スーパーカップで直接フリーキックを決めるなど世界でも通用するフリーキックスキルを発揮しました。初のWカップを目指す日本代表を牽引し続けた木村は、1985年メキシコW杯アジア予選で迎えた韓国戦でペナルティエリア前の約40mの位置でフリーキックのチャンスを得るとFKの名手木村和司の美しいシュートが炸裂。ビハインドの中で素晴らしい結果を残しました。当時日本が最もW杯に近づいた日と言われておりこのFKは伝説となっていますがこの時はW杯出場を逃している。




第2位 遠藤保仁

選手名 : 遠藤保仁

ポジション : MF

代表通算 : 152試合15G

プレースタイル : 多彩なパスでゲームメイクするチームの心臓

次にランクインしたのは、日本代表・Jリーグ共に通算出場最多記録をもており、PK・FK・CKどれをとっても超一流の日本屈指のキッカー遠藤保仁。鹿児島で生まれた遠藤は1995年に名門鹿児島実業へ進学し高円宮杯優勝や高校サッカー選手権ではベスト8に進出するなど全国の舞台でも躍動U-18日本代表にも選出され日本代表にも選出される選手に成長。高校卒業後は1998年に横浜フリューゲルスへ加入すると開幕戦で即プロデビューを果たす。横浜フリューゲルス消滅後は京都パープルサンガ、ガンバ大阪と移籍を続け、その頃にはアンダー世代の日本代表にコンスタントに選出されるようになり当時「黄金世代」と呼ばれる世代の一員として1999年ワールドユース選手権に出場し日本代表に準優勝に貢献。2002年にジーコジャパン時代ではA代表に初招集されるとアルゼンチン戦で代表デビューを果たしその後も史上最強と評されたジーコジャパンの主力として定着しました。のちにオシムジャパン、岡田ジャパンと監督が変わった後も中盤のバランサーとして起用され続け岡田監督からは「チームの心臓」と評価されました。2010年南アフリカW杯もメンバーに選出され迎えたグループリーグ3戦目のデンマーク戦で、ペナルティエリアて前でのフリーキックでは、デンマークの意表をつくように遠藤が右足でFKを蹴り放物線を描きながらゴール右隅に突き刺しました。遠藤はFK時のGKとの駆け引きに非常に優れておりに非常に優れておりニアに蹴ると見せかけてファーに決めるなどGKの体重移動をよく見ていてGKが一歩も動けないシーンがよくありました。この駆け引きの中で遠藤の代名詞でもある「コロコロPK」にも生かされています。現在もまだ現役を続けていますが、年齢的にも彼のプレースキックが見れなくなる日も相当くないかもしれません。

第1位 中村俊輔

選手名 : 中村俊輔

ポジション : MF

代表通算 : 98試合24G

プレースタイル : 世界を驚かせたFK日本最強レフティ

そして最後1位に選ばれたのは説明不要のFKの名手で引退後は久保建英にも影響を与える伝説中村俊輔。小中学で日産のJrユースに所属し2度の全国制覇を経験するもユースチームへの昇格ができず神奈川の桐光学園へと進学すると3年時にはマスコミからも注目される選手となり注目される選手となり、全国高校サッカー選手権で準優勝を果たす。卒業後は1997年に横浜マリノスへ入団し加入初年から輝きをみせJリーグ優秀新人賞を受賞。2000年にはJリーグ最優秀選手賞を最年少で受賞するなどJリーグ屈指のMFへと成長へと成長しました。日本代表では1998年にA代表に初参加しその後もコンスタントに代表に選出され2002年日韓W杯にも選出されるかと思われましたが怪我などもありまさかの落選で失意を味わいました。ジーコジャパンではレギュラーメンバーとして選出されメンバーとして選出され日本代表でも10番を背負う事になりコンフェデレーションズカップでのフランス戦では世界を驚かせた衝撃のFKを決めるなど、このシーンは今もなお伝説として語られています。この大会で3得点を挙げた俊輔は大会のブロンズシューズ賞を獲得するなどシューズ賞を獲得するなど世界の舞台でも圧巻のパフォーマンスを見せました。2004年のアジアカップでも好調をキープしチームも優勝を成し遂げ俊輔は俊輔は大会最優秀選手にも選ばれた。クラブではセリエAレッジーナでセットプレーから7ゴールを決めるなどの活躍で名をあげるとスコットランドの名門セルティックに移籍が決定。そしてここからが中村俊輔伝説が始まりました。中でもヨーロッパチャンピオンズリーグでみせた2ゴールは素晴らしく、敵地オールド・トラフォードで行われたマンチェスター・ユナイテッド戦ではオランダの名GKファン・デル・サールが一歩も動けないスペシャルな一撃をお見舞いすると、このFKがチャンピオンズリーグでの日本人初得点となりヨーロッパトップレベルにも通用することを証明しました。続く第5節マンUをホームで迎えると後半、前節と同じような場所からFKを獲得すると前節のFKで警戒心をあらわにしたファン・デル・サールを嘲笑うかのように壁の頭上を軽く飛び越えていきゴール右上隅に叩き込む技アリゴールで世界に衝撃を与えました。このゴールが決勝点となりセルティックはクラブ史上初のCLのGL突破を果たしクラブの歴史に名を刻む事になったのでした。その後2013年には古巣横浜Mに移籍しリーグ2桁得点を記録するなど圧巻のパフォーマンス。その後ジュビロ磐田、横浜FCと移籍し活躍しながら2022年に現役引退。現在は横浜FCのコーチとして活躍。今後俊輔のようなFKの名手は日本に現れるのか期待したいです。